気まぐれ日記 07年11月

07年10月はここ

11月1日(木)「バーゲンセール開始前夜・・・の風さん」
 いくら何でも、もういい加減に執筆再開しなければ、と思いつつ、さっさと帰宅した。
 リビングに入ってビックリ。日本シリーズ第5戦をやっている。
「ダルビッシュ、カッコいい〜」
 とは、ワイフのため息まじりのセリフ。
「なんだ。僕が東京モーターショーのコンパニオンがカッコいい、と言うと、貴方少し変じゃない? と言うくせに……」
「わたしは貴方と違って心に邪念がないから」
「ふん!」
 今夜もバイトに出かけている長男とワイフは日本ハムのファンらしい。次女は中日。僕は同級生の落合監督を応援している。
 試合は1−0で中日がリードしていた。
 エラーや四死球のない引き締まった投手戦で、試合はどんどん進行していった。
 終盤になって、予想もしないことが起きた。8回まで日本ハムをパーフェクトに抑えこんでいた山井に代わって、9回にピッチャー岩瀬が告げられたのである。
 結局、岩瀬も三者凡退に終えて、二人で完全試合が達成されたのである。
 普通なら山井を続投させて、もしランナーが出たら、そのときはピッチャー交代を考えるというのが常識だと思う。なぜなら、プロなのだから、お客さんが一番喜ぶ場面を提供するべきだからだ。
 山井を続投させた結果、1発を浴びて同点になってしまい、さらに救援投手まで打ち込まれて、結局この日は敗戦となり、札幌で連敗してまた日本一を逃すという最悪のシナリオだって十分考えられる。勝負の世界は厳しい。それぞれのリーグを勝ち進んできた両チームにそれほどの実力差がある筈はない。しかし、たとえそうなったとしても、今のこの場面で、お客さんの楽しみを奪うのは、プロとして良くないと思う。
 某報道では、山井が交代を申し出た、マメがつぶれていた、と書かれていた、真偽のほどは怪しい気がする。結局のところ、落合監督が、何が何でも優勝するのだという強い信念で継投策をとったような気がする。広岡達郎氏がその点を評価していたが、それは広岡氏ならではの見方である。ヤクルトの監督時代、広岡氏は非情の采配を振るっていた。また、野手出身の監督だからこそ取れる継投策だったのかもしれない。
 政治の世界と同様に、一般庶民には本当のところは分からない。どちらを選択しても議論になってしまう類いの問題だろう。
 明日から地元では、狂乱のバーゲンセールが始まるだろう。超多忙な風さんは、今度こそ執筆再開しなければ、と覚悟を決めつつある。

11月2日(金)「焦りの日常・・・の風さん」
 睡眠不足の中、這うように起き出して出社。体調がイマイチでもミッシェルが快調に走るので、自然と気持ちが若返る。クルマに限らず、科学技術のお蔭で、現代人は元気で長生きになった。しかし、本当に体力が増進したわけではないだろう。先月のバリウム検査の結果がまだ来ない。どうなっているのか、今日は問い合わせるつもりだ。
 昼休みも含めて夕方まで仕事に明け暮れた。会社の仕事をあたふたとやっていればいるほど、作家としての仕事が遅れていくような気がして焦る。寸暇を惜しんで作家業に専念していると、会社の仕事をサボっているようで気が咎める。その狭間で、大学院の学業がおろそかになる。そもそも無茶な人生を歩んでいるようだ。
 定時後、同僚と自宅で安静にしている部下を見舞った。椎間板ヘルニアで来週手術をすることになっている。今はしっかり治して復帰してもらいたいが、会社から疎遠になっていることで、本人が焦っているだろうと思い、様子を見ついでに激励に出かけたのだ。表情は元気そうだったが、座っているのもつらそうで、とにかく安心して治療に専念するように伝えた。しかし、保険の利かない新しい手術法らしく、重い負担が気の毒だった。
 そのとき、自分のバリウム検査の結果を問い合わせるのを忘れたことに、ようやく気が付いたが、もう遅い。
 有料道路を使って時間短縮をはかった。途中でケーキを買い、さらにミッシェルに給油した。ガソリンの価格が150円/Lを超える寸前まできていた。
 帰宅すると、普通はミッシェルのエンジン音に気付いて、ワイフと猫たちが玄関に出迎えてくれる。今夜はワイフだけだった。
 開口一番。
「ハッピー・バースデー・イブ!」
 明日は、ワイフの誕生日である。

11月3日(土)「作家の妄想・・・の風さん」
 1週間かそれ以上の疲労がたまっていて、起床は正午をだいぶ回ってから。
 今日もいい天気だ。
 朝刊を見ると、一面に二つの大きな記事が出ていた。大連立構想不成立と日本シリーズの投手交代劇の真相である。
 山井から岩瀬への交代の真相は、すぐにインターネットに出た話が事実らしく、落合監督の談話とそれを裏付ける写真が出ていた。山井のユニフォームに付着した血の跡である。8回以前からマメはつぶれ、血がにじんでいたようだ。交代の申し出は山井からとのことで、それを捕手の谷繁を交えて森ピッチングコーチが話し合い、結果を監督へ伝えたという。落合監督は、選手生命を重んじて決断した、と話していたが、最初に申し出た山井投手の心中の葛藤を、作家としては想像してしまう。
 山井投手のスポーツマンシップが感じられるのだ。
 マメがつぶれて血が出るほどだったということは、ボールに血や体液が付着する心配があったということだ。微妙な感覚で投げる投手の指にバンドエイドを貼ることは考えにくい。
 かつて江川投手や野茂投手はよく爪が割れた。彼らはマニキュアを塗って保護したりしていたが、それでも爪は割れた。ボクサーが指の骨を骨折するように、剛球を投げるピッチャーの職業病みたいなものだろう。
 山井はスライダーが切れていた。縫い目にしっかり指を引っ掛けて投げる変化球投手の職業病がマメではないだろうか。
 大リーグにゲイロード・ペリーという野球殿堂入りしたピッチャーがいた。彼はスピットボールを投げているのではないかと疑われたことで有名だ。スピットボールとは、ボールに唾液をつけて重心をずらし、回転と合わせて鋭く変化させるボールのことだ。もちろんスピットボールは禁止である。
 完全試合という大記録が達成された後で、もしマメが割れて血や体液が流れていたことが判明したら、当夜の鋭いスライダーが疑われてしまう。優勝の栄光に不名誉な汚点をつけかねない。スポーツマンシップから言っても、また勝利を確実なものにするためにも、岩瀬への必勝リレーは山井自身の考えた結論だったのではないだろうか。
 断片的な情報から想像をたくましくしてしまうのは、作家の習性である。以上が作家の妄想かもしれないことを最後に付け加えておく。

11月4日(日)「秋田の舞茸で乾杯・・・の風さん」
 今日も昼近くまで寝てしまった。空は昨日に続いて気持ちよく晴れ渡っていた。
 秋田の友人から舞茸が届いた。「祝・日本一!」とメールがあった。落合監督が秋田の出身だったからそう書いてきたのだろうが、出版祝の気持ちも強かったに違いない。
 遅く起きたが、久しぶりに『言志四録』を読んだ。「ゆっくり処理してよいことは迅速に。急いで処理しなければならないことはゆっくりと行うがよい」と書いてあった。
 素直に従って、月後半の3つの講演の準備を軽くやっておいてから、『和算小説のたのしみ』の原稿に着手した。今日は第二章である。
 夕方、会社の友人が来た。社内営業部長をやってくれているありがたい友人で、10冊調達していった。お礼に届いたばかりの舞茸をお裾分けした。
 夕食に舞茸の天ぷらとバター炒めを作ってもらった。天ぷらはからっと揚がっていて、珍しい抹茶塩をかけて食べた。歯ざわりもよく、キノコとは思えない深い味わいがあった。バター炒めも香ばしかった。舞茸がこんなに美味しいものだとは知らなかった。

11月5日(月)「『ラランデの星』の書評・・・の風さん」
 今日は病院で定期的な診察を受け薬をもらうため、会社を休んだ。
 意外なほど病院は空いていて、あっという間に終わった。
 病院は勤務先の本社に近いので、それから本社へ顔を出して、ちゃっかり作家としての営業活動をした。訪問販売や委託販売である。先輩、同僚、後輩、実に多くの方たちが私を応援してくださる。その期待に何とか応えたい。私の考える応え方は、応援した甲斐があったと皆に思ってもらえることだ。つまり長く残る良い作品を書くことである。生意気な言い方を許してもらえるならば、文化遺産となるほどの作品である。
 本社を出てから市内の書店へ向かった。実は、ある先生から、昨年出した『ラランデの星』の書評が出ていることを教えてもらったからだ。『数学セミナー』2007年11月号である。店員に尋ねて、その雑誌を見つけてもらった。確かに載っていた。これで通算16個目の書評である。もちろん『ラランデの星』だけで、である。これだけたくさんの書評が出るということは、無上の幸福である。
 買って帰宅し、出版社へファックスした。

11月6日(火)「死ぬか生きるか・・・の風さん」
 土日にたっぷり寝たせいか、ちょっと睡眠時間が足りないともう眠い。最近の調査によると日本人の平均睡眠時間は7時間ちょっとである。それに比べれば、確かに少ないが、一人で三人分の人生を生きようとしている人間が、それでガタガタ言えることではない。誰かが言っていた。睡眠不足で死んだ人間はいない、と。
 疲れて帰宅したら、リビングから音楽が聞こえてきた。
「やっと待望の曲が手に入った」とワイフ。
 徳永英明のてんこもりカバー特集だった。MDをもらったとのこと。
 僕は全くファンではないので、全然関心なし。
「ガリレオに出ている福山雅治はカッコいいよなあ。声もいいし」などとうそぶく。
「クルマで聴けたらいいのだけど、MDじゃダメだし。CDに録音するなんて、無理でしょ?」とワイフが、私のツボを押してきた。
「へへーん。できるんだな、それが」
 私のミニコンポにはCDレコーダーもつないであるのだ。
 自慢たらたらで、書斎から音楽CDを持ってきて、録音の準備を始めたら、
「MDは3枚あるけど……」とワイフ。
 それから、録音完了までたっぷり3時間もかかってしまった。息切れ。
「疲れたでしょ。長生きしてね」とワイフ。
「先月のバリウム検査の結果が分かったよ。ポリープはあるけど、2次検査の必要なし、だって」
「ああ、良かった」
「どういう意味だ?」

11月7日(水)「帰宅すると調子が狂う風さんの巻」
 今日こそ執筆をしようと急いで退社。走行距離が12万kmを越えたばかりのミッシェルの走りは快調だ。
 家に駆け込むと、出迎えてくれたワイフが、プリンターの具合が悪いという。サンルームの共用パソコンにつないであるプリンターだ。インクカートリッジを交換してから色が変わったという。どれどれ、と見てみると、明らかに何か出ていない色がある。エラーメッセージは出ていないので、プリンターヘッドのクリーニングを何度も繰り返してみるが、ほとんど改善されない。いよいよ寿命か、と情けなくなる。
 夕食後、止むを得ず、書斎の私のプリンターで、40枚ほどの招待状を印刷してやった。
 やれやれと思ってリビングに下りて行くと、またMDが鳴っている。
「あれ? 昨日作ってあげたCDは?」
「あたしのラジカセにかけるとエラーになって聴けないの……」
「???」
 試しに、クルマのCDプレイヤーにかけてみたが、やはり鳴らなかった。
 そうか! これは、私のCDレコーダーで録音したはいいものの、ファイナライズ処理をしなかったため、ラジカセがCD−Rを認識してエラーになっているのだ。
 というわけで、今度は、昨夜作ったばかりのCD3枚のファイナライズ処理をやるハメに……。
 すべて終わった時点で疲れてしまい、執筆やるぞという元気が失せてしまった。
 仕方なく、雑用を次から次へとこなした。これで、また疲労が増した。

11月8日(木)「何があっても思うこと多し・・・の風さん」
 午前中は本社へ出張し、わずかな時間を利用して作家としての営業活動も実施。『美しき魔方陣』を読了してくれた方から、貴重なご意見も頂戴した。完成度の点で志半ばであったところを明確に指摘されたもので、次作への糧としたい。しかし、こういった鋭い書評が技術開発のプロから得られるところが、勤務先の凄みである。世界トップクラスの企業ゆえんだろう。そこへ身を置いている幸運と幸福を実感する。
 帰宅したら、辻真先先生の新刊が届いていた。『甲州・ワイン列車殺人号』(光文社文庫)である。いくらプロとはいえ、すごい勢いで新刊が届く。いったい、どうすれば、こんなに新刊が出せるのだろう。同じことが、楠木誠一郎さんについても言える。私のこのホームページの寄贈図書リストをご覧いただければ一目瞭然だと思う。ほぼ過去1年分の寄贈図書を紹介しているが、お二人の著述が圧倒的に多い。負けずに寄贈返しをしたいと思っても、戦う前から勝負はついているか……(笑)。とは言え、目標は高いほどいい。

11月9日(金)「次元を超えた走り・・・の風さん」
 風さんの勤務先は自動車部品メーカーである。だから、自動車メーカーがお客様ということになる。一方、視点を変えれば、風さんたち従業員は、自動車メーカー(ディーラー)からすれば、エンドユーザーなので、お客ということになる。回りくどいことを言っているが、風さんの勤務先の敷地内で、新車のちょっとした展示会が頻繁に繰り広げられる。今年の東京モーターショーを断念した風さんにとっては、せめてこういった場を利用して欲求不満を沈めておかなければならない。ただし、コンパニオンなど決して来ないので、その点は解決にはならないが!(おい^^;)。
 今日、昼休みに展示があったのはスバルの富士重工だった。先日の新聞で、トヨタとの小型スポーツカーの共同開発に着手し、独自技術である水平対向エンジンを提供することが報じられていた。そのことが気になっていたので、インプレッサの水平対向エンジンを見てみたかった。
 3台の展示の中に、1.5リッター水平対向4気筒DOHC16バルブエンジンを搭載するインプレッサがあった。ボンネットを開けてもらうと、確かに、車軸方向に伸びたクランクシャフトを中心に、水平面内左右対称に気筒が配置されていた。思ったよりもエンジンマウント位置は高かったが、ピストンの慣性力が対外に打ち消しあって、低振動で滑らかな回転を実現するのだ。
 インプレッサは外観もスポーティな感じで良かった。
 同じシャーシながら、最高グレードのインプレッサのカタログ・データは凄まじい。2リッターのDOHC16バルブでツインスクロールターボ付きは、6000回転で250馬力。馬力当たり重量は5.6kgだ。ミッシェルの7.9kgを上回る。次元を超えた走りをするに違いない。ぜひ試乗してみたい。

11月10日(土)「中村雅俊のコンサート・・・の風さん」
 ワイフの発案で「中村雅俊のコンサート」に出かけた。歌手のコンサートを聴きに行ったのは、私は生まれて初めてだ。それなりに人生経験も積んだマルチの風さんだが、やっていないことはいくらでもある。興味がないわけではない。深く追求するものがあればあるほど、経験せずに終わることは多くなる。
 宮城県出身で(地方出身という意味も込めて)、学年で3年上なので、風さんが仙台で学んでいた頃は、彼はまだ実家と東京を往復していたのではないかと思われるし、4人の子供の父親というところも、何となく親近感があった。だから、超多忙ではあっても一緒に行くことにした。
 会場に入ったら暗いステージで、一人ギターを弾いている人がいたが、前座だなと思って気にもかけないでいたら、後で、それが中村雅俊だったと知って驚いた。粋なことをする人だ。
 たくさん歌ってくれ、同年代の自分としては気分が高揚し、とても元気が出たが、ほとんど全曲と言っていいほど、知らない曲ばかりだった(笑)。最後になってようやくヒット曲「ふれあい」と「俺たちの勲章」を歌ってくれ、満足した(^_^;)。何はともあれ、元気をいっぱいもらったが、多分にそれは同年代のせいだったろう。会場も年齢の近い観客ばかりだったように見えた。

11月11日(日)「もう東京モーターショーが終了・・・の風さん」
 朝からてんこ盛りの仕事の山崩しにかかった。不思議と体調がいいので、頑張れる。念のためにバイオリズムをチェックしてみたら、特にベストな状態ではなかった。トレーニングはずっとさぼりっぱなしだが、できるだけ体を動かしていることと、しっかり食事を摂っていることが良い効果を生んでいるのかもしれない。
 昨日、今日と楠木誠一郎さんの『平賀源内は名探偵』を読んだ。タイムスリップのシリーズ物で、もうかなり長期間続いている。歴史の好きな子供たちには絶対受けそうな内容で、コミカルな面白さもある。そのうちユーモア小説を書いてみたいと思っているので、勉強の意味もあった。真似はできないし、またしてはいけないが、どういったユーモアを使ったらいいのか、読了しても発想が湧かなかった。それはともかく、今年45冊目の読了である。何とか目標の50冊は超えたい。
 そうこうしているうちに東京モーターショーが終わってしまった。今年は何とか行きたかった。ワイフが超多忙だったので(と言いながら中村雅俊コンサートへは行ったが)、コンパニオンをやってみたいと言っていた長女を連れて行こうかとも考えたが、冷静にそろばんを弾いてみると、行って帰ってくるだけで、とんでもない出費になる。じゃあ、自分ひとりで徹底的に安い旅費で行こうかとも思ったが、そんな時間もなくなってしまった。それで、今年は、泣く泣く、ネットからコンパニオンの写真をせっせとダウンロードして欲求不満を解消することにした。しかし、ネットの写真を見れば見るほど行きたくなって、とっても悲しくなった今年の東京モーターショーではあった。次回こそは、と拳を握る風さんでもあった。

11月12日(月)「中村正弘先生の訃報・・・の風さん」
 週始めの定例行事である。少し早く製作所へ出社し、職場の神棚へ参拝。二礼二拍手一礼。現場の人たちとラジオ体操をやってから、朝会。
 それから会議や何かがずーっと続いて、いったん席に落ち着いたのは午後3時過ぎだった。……。
 やっと帰宅して、夕刊を開いたら、中村正弘先生の訃報が載っていた。9日に肺炎でお亡くなりなったのだ。88歳だった。中村正弘先生は、東北大学理学部数学教室の出身で、数学者である。大阪教育大学名誉教授だったが、江戸川乱歩の時代にミステリ作家として活躍されたことも特筆に価する。筆名は天城一といい、日本推理作家協会の名誉会員でもある。
 鳴海風との縁は、故平山諦先生が大いに関係している。晩年になって和算へのキリシタンの影響を研究されていた平山先生に、中村先生は大いに共鳴されていたから、私が『算聖伝』を出版した時は、中村先生はとても喜んでくださった。
 その後も、中村先生は、和算関係の研究論文や、出版された古典派の推理小説集を何度も送ってくださった。和算の研究においても、小説の執筆においても、はるかな高みにいて、私を見守ってくださっていたのである。合掌。
 
11月13日(火)「コスモス街道・・・の風さん」
 雲ひとつなく晴れた朝の出勤は気持ち良い。ついミッシェルのアクセルを深く踏みがちになる。
 通勤路には農道もある。田園風景を眺めながらのドライブも、遠くへ旅行している気分に(……なれなない、なれない、これから仕事だ)。
 かつて米余りなんぞという妙な時代があった。涙の青田刈り(ときには実った状態まで)をしたこともあったし、休耕田にすることを奨励し、土地が痩せないように(効果のほどは知らないが)コスモス畑にしていたこともあった。そのコスモスの名残りだろうか、毎年この時期になると道路脇などにコスモスの群生が見られる。外来の雑草に過ぎないセイタカアワダチソウの繁茂を見て怒りを覚えることが多い中で(枯れススキは好きだが)、これははるかに気持ち良い。
 赤と紅色、薄桃色、三色の花々が、均一に混ざって仲良く咲いているコスモス街道を通って、私は会社と自宅を往復する。
 一日があっという間に終わって帰宅した。時計は午後11時を回っている。少し疲れた。眠い。
 ダイニングに入って、テーブルの上に載っているファックスを見て小躍りした。
 待望久しい『算聖伝』の増刷決定通知だった!

11月14日(水)「歯質の弱い風さんの巻」
 若い頃というのは、突然変なことを思い立ち、しかも実行してしまう。それが若さと言えば言えるのだろうが、他人から見れば、滑稽とか絶句とか不可解に思われるかもしれない。
 大学時代に、友人が「あそこの歯医者はすぐ抜歯するぜ」と言うので、痛くもない親知らずを診てもらうために行ってみたら、はたして「抜きましょう」と言われた。一種の肝試しのつもりで出かけた私は、その覚悟ができていたので、首を縦に振ると、てきぱきと抜かれてしまった。
 私の歯医者通いが始まったのはそれからで、1年以上も歯医者に縁がなかったということがない。もともと歯の質が弱いのだろう。そのくせ親知らずはちゃんと生えて、しかも5本も!(アンドレ・ザ・ジャイアントみたいだ)すべて抜いた。さらに過剰歯まで生えてきたので、それも抜いた。残る28本は治療跡が多いが、すべて生存(?)している。歯医者大好き人間だし歯磨きだってちゃんとやっているが、8020が達成できるかどうかは不明。
 一昨日、歯の定期健診のため予約の電話を入れ、超多忙を理由に12月後半で予約した。そのバチが当たったのか、その夜、右下奥歯の詰め物が食事中に外れた。アマルガムの防護がなくなったので、そこで何かを噛むと痛い。止むを得ず、今日、応急処置をしてもらったが、また治療が始まってしまった。やれやれ。

11月15日(木)「たまには肝を冷やすことがある・・・の風さん」
 年をとると、あまり物事に動じなくなるものだ。人生経験がそれなりに精神を抑制できるからだろう。それでも、たまには周章狼狽することはある。肝を冷やすこともある。
 それは一昨日の夜の電話から始まった。私がまだ帰宅する前に、クレジットカード会社から電話があり、ワイフには話せない内容なのだという。ほとんど使うことのないカードなので、あとで聞いた私も見当がつかなかった。それが、昨日、こちらから電話してみて、初めてとんでもない知らせだったことを知った。何と、私のカードが不正使用されそうになったのだという! インターネットでカード決済しようとしたらしいのだが、カードの有効期限の入力が正しくなくて、決済は不成立、同時に信用機関は不正使用の疑いで動き出したわけだ。
 名前とカードの番号と有効期限さえ間違ってなければ決済されてしまうのだから、インターネットショッピングというのは恐ろしいと思った。
 何年か前に車上荒らしに遭って、カードを含む貴重品をごっそり盗まれた。そのときのことを思い出した。
 今日、再度、カード会社と連絡を取り合って、カードの無効化と新カードの発行をお願いした。

11月16日(金)「会社の仕事もピンチ・・・の風さん」
 朝から本社へ直行した。最近、大学院での勉強はさっぱりだし、小説家としての仕事も大いに滞っている。しかし、それ以上に会社の仕事がピンチになっていた。今日は、上司への中間報告だった。
 午前中に二人の上司へ報告し、午後からさらに上のトップへ報告した。トップの明快な判断で、ピンチは収束へ向けて動き出すことになり、内心ホッとした。トップの技術的見識はずば抜けていて、日頃から尊敬しているが、今日の判断もため息が出るほどの凄みがあった。
 朝から頭痛のしていた私は、少し時間的に早かったが、安心して本社からまっすぐ家路についた。

11月17日(土)「相変わらず多忙・・・の風さん」
 25日(日)の刈谷市中央図書館での講演のため、今日は、朝から自分のパソコンを持って行き、現地の器材との相性を確認し、会場の照明などについても時間をかけて詳しく下打ち合わせできた。午後は、本山キャンパスへちょっと出かけ、帰宅してからは来週の講演資料の準備に真剣に取り組んだ。ただし、昨日からの頭痛がしばしば襲ってくるので、鎮痛薬を飲みながらの奮戦である。
 深夜にいったん中断し、ワイフとワインを飲みながら放談した。その間にしこたまワインを飲んでしまったので、ベッドに入った瞬間、もう意識がなかった(笑)。

11月18日(日)「終日講演の準備に追われる風さんの巻」
 夕べはひどく酔っ払って寝たわりに、今朝は元気に目覚め、昨日の作業の続きをやった。午前中に22日のジュンク堂池袋本店でのトークセッションの資料がほぼ完成し、午後3時までに23日の幕末史研究会の例会の講演資料がほぼ完成した。その後、横になって仮眠した後、また資料作成を再開した。
 25日の刈谷市中央図書館の講演資料は手強く、途中で来月の講演や関孝和三百年忌法要への参加要領などについて先生方とメールで相談して気分転換をはかった。
 そうこうしているうちに、またまた自分を追い詰めるように、来月、1年ぶりに「Net Rush」に出演することを決めてしまった。『美しき魔方陣』の出版や関孝和三百年忌法要と記念事業、そして私の社会人入学など色々とネタが多い。自分自身が商品になるとは思っていないが、自分自身が登場して発信すべきことはある。

11月19日(月)「コールマンのペットボトルカバー・・・の風さん」
 この間、出張途中で飲み物を買うためサークルKに寄ったら、350ml入りペットボトルにコーデュロイのボトルカバーがおまけでついていた。コカ・コーラ系のドリンクで、暖めて売っているコーナーである。値段は割高だが、ホットドリンクを飲みたかったので買った。もちろんおまけに弱い風さんではある。
 帰宅して袋から出して、小さなペットボトルに着せてみると、なかなかカッコいい。コールマンのロゴ入りである。全部で8色あるらしい。ワイフに自慢げに見せたら、
「全種類そろえるなんて気を起こさないでね」と警告。私の癖を熟知している。
 長男と次女に見せたら、シカト! 
 それで、全種類そろえる決意をした。
 1日に1色。ミッシェルで走っていてサークルKがあったら、必ず寄って探すことを続けた。
 今日は1週間目で、最後は残り2色を購入。これで、全8色がそろった。
 帰宅して第1声。
「とうとう全8色そろえたぞ!」
「やっぱりやると思ったわ」ワイフの呆れ顔が玄関に現れた。

11月20日(火)「いつもの土壇場、火事場の馬鹿力・・・の風さん」
 夕べのワイフの呆れ顔がまだ脳裏に焼き付いている夕食後まもなく、私は書斎でダウンした(何のことはない、居眠りしたという意味)。
 んでもって(これは鈴木輝一郎さんの言い回しだな)午前零時頃にゾンビのように起き出して、入浴後、講演の準備を始めた。とりあえずは、3連続講演の1発目となる22日のジュンク堂池袋本店向けである。新作『美しき魔方陣』の売込みが当初の狙いだったが、ジュンク堂とも連携して、関孝和没後300年記念事業の宣伝もすることになった。
 関孝和は、生年と生地がはっきりしない。およそ1640年ごろ、江戸か上州藤岡の生まれである。亡くなった年月日ははっきりしていて、宝永5年(1708)10月24日(太陽暦だと12月5日)である。だから、今年2007年は三百年忌となる。関孝和のお墓は、新宿区弁天町95浄輪寺に現存していて、来たる12月2日(日)に法要が営まれ、日本数学会などの主催でおよそ1年間にわたる記念事業がスタートするのだ。発起人の一人に加えさせていただいた私も協力しなければならない。
 ジュンク堂池袋本店でのトークセッションでは、そういった経緯を紹介し、資料も配布することになっていたから、プレゼンスライドに新たな資料を加えた。
 それで、就寝は未明4時半となってしまった。
 今日は、会社の仕事で本田技研の工場を見学に行ってきた(これで、おしまい)。

11月21日(水)「そろそろ限界か、まだまだ大丈夫・・・の風さん」
 もう日付変更線は滅茶苦茶である。今朝も昨日のほぼ再現で、就寝は未明の5時だった。ジュンク堂トークセッション向けのスライドはほぼ完成した。
 2時間ほどの仮眠で出社し、超高速モードで仕事。朝から首の付け根が痛くて、鎮痛剤のロキソニンを服用したが治らない。……、定時で退社。
 今日は昼食がカレーうどんだったが、夕食もカレーライスだった(平気平気の風さん)。書斎で先ずバタバタと雑用を片付け……ているうちに、またダウン。
 午前2時半にワイフに起こされた。
「風さん。そろそろ起きないと……」違う、違う! ワイフのセリフじゃない。
 夜食に肉まんを2個食べてから入浴。また、ロキソニンを服用するが、首が痛い。いよいよお陀仏か。
 とにかく、幕末史研究会向けの講演準備の仕上げだ。
 ・・・現在午前5時を過ぎて……、まだできていませーん(涙)!

11月22日(木)「ジュンク堂池袋本店トークセッション第2弾・・・の風さん」
 今朝の6時半まで資料作成を続けた。いくら何でも少し寝ておかないと……、と思ったので、暫時ベッドのもぐりこもうと寝室のドアをそっと開けようとしたら、いきなりそのドアが開いた。すわ、くせもの! と思いきや、起き出して来たワイフだった。
「おはようございます」
「勤務交代ですね。頑張ってください」
「いや、これからちょっとだけでも寝ようと……」
「あら、そうでしたか」
 ワイフも寝ぼけていたようだ。
 ……。
 再び9時半に起きて、本当に出発の準備を開始した。今度は旅行支度だ。
 ワイフと一緒で、荷物がべらぼうに多くなった。キャリー付のバッグとショルダーバッグは必須の荷物として、それ以外に紙袋が3つである。紙袋の中身は、今夜の打ち上げ会に参加してくれた人たちへのお土産である。
 名古屋まで名鉄電車で出て、そこから新幹線で上京した。続いて、地下鉄丸の内線で池袋まで行き、先にタクシーでホテルへ向かった。チェックインをし、トークセッションと打ち上げ会に不要な物を部屋へ運んでもらうように頼んだ。
 待たせてあったタクシーに乗ってジュンク堂池袋本店へ向かう間、老運転手が池袋の紹介をしてくれた。何のことはない、池袋生まれで、今もこの高層ビルが建ち続ける土地に住んでいるという。しかし、盛んに昔は何にもなかった場所ですよ、を繰り返す。私も、もう戦後60年を過ぎていますからねえ、などと変な相槌を打ったりしていた。ところが、この老運転手の生まれた年を聞いて驚いた。私より10歳しか上ではない! 私も爺(じじい)だということか。とほほ……。
 半年前にもやらせてもらったトークセッションなので、すべて慣れている。会場のセットアップも自信をもってやれた。持参のパソコンとプロジェクターをつないだら、すんなりと始動した。コーヒーを飲みながらゆっくりしている間に、続々と知り合いが駆けつけてくれた。うれしい。とにかく全力で用意したスライドなので、一人でも多くの方たちに眺めてもらいたい。
 会場となった4階の喫茶室はほぼ満席となった(やれやれ)。
 1時間かけて念入りに説明ができ、その後の質疑応答が30分も続いた。それから、本の販売とサイン会になり、すべて終了したのが9時10分前だった。
 関係者にお礼の挨拶をしながら、ふと今夜のトークセッションの看板を眺めたら、「美しき魔方陣」であるべきところが「美しき魔法陣」となっていた。
 編集者と徒歩で出版打ち上げ会場へ向かった。料理が自慢の店だと編集者が力説するだけあって、なかなかの料理が続々と出た。
 今夜の出席者は、解説を書いてくださった磯貝勝太郎先生、装丁をしてくださった中島かほるさん、今回の編集を担当された二人と前任者、そして私たち夫婦の合計7人である。トークセッションには打ち合わせが長引いて出席できなかった中島さんを除いて皆出ていただけたので、タイミングも良く、意義のある打ち上げとなった。たっぷり食べて飲んで、それぞれの方にお土産も渡すことができた。
 私たち夫婦はそれから徒歩でホテルへ向かった。
 とりあえず、今日のスケジュールが終わってホッとした。

11月23日(金)「幕末史研究会の例会で講演・・・の風さん」
 昨夜は寒かったが、今日の東京は雲ひとつない秋晴れで、絶好の観光日和である。
 せっかくワイフ同伴で上京しているので、歴史の勉強をしてもらうことにした(えっへん)。
 上野まで行き、コインロッカーに荷物を預けた後、地下鉄で浅草へ。雷門から仲見世を見物させて浅草寺で参詣後、算子塚へ案内した。最上流の開祖会田安明の顕彰碑である。初めて私が発見した時は境内の石碑群の整備中で、算子塚は地べたに寝かされていた。
 そこから浅草演芸ホールの前を通って上野へ戻る方向へ、ぶらぶら歩いた。途中、イタリアンレストランで昼食を摂り、さらに狭い道を進んで源空寺にたどり着いた。墓地の門がなぜか開放されていて見物人が数人いたが、ここに『ラランデの星』の重要登場人物、高橋至時と景保の父子、そして伊能忠敬の墓があるのだ。『ラランデの星』の最後の場面はこの墓地だった、と解説してあげた。
 その後、国立西洋美術館へ連れて行った。周囲にある銀杏がすべて黄色に変色していることを期待したのだが、まだそこまで紅葉は進んでいなかった。庭にあるロダンの彫刻を見せて、館内に入ったが、もうゆっくりと見学している時間はなかったので、ミュージアムショップで開催中のムンク展の記念グッズをお土産に購入した。しかし、祭日ということもあって、人手の多さは尋常ではなかった。上野の森美術館ではシャガール写真展をやっていて、そこも行列していた。
 コインロッカーの荷物を取り出して、東京駅へ向かい、ワイフを新幹線で家路につかせた。彼女は明日の午前と午後、自宅でトール教室があるのだ。
 一人になった私は、今夜の宿へチェックインするため、地下鉄に乗った。
 いくらか荷物は減ったが、実は、今夜の講演で即売するための本を抱えていて、それがなかなかの荷物だった。腕にも足腰にもけっこうな負担である。やがてこんなことはできなくなるだろう。それより、売れ残ったときのことを考えると、目の前が暗くなる。
 吉祥寺駅には午後6時に着いた。そこから会場までとぼとぼと歩いた。
 幕末史研究会主催の講演会だが、知り合いが多いので、まったく不安はない。最大の不安は本が売れ残ることだった。
 時間がたっぷり与えられていたので、約1時間50分かけて幕府天文方の歴史を語った。質疑応答もいくらかこなした。その後も何人もの方たちから感想や意見をうかがったが、歴史に詳しい会員にとっても初めての話が多かったみたいで、満足してもらえたようだ。
 片付けが始まった時には、持参の本は完売していた! 『算聖伝』を除く単行本各2冊と文庫の『美しき魔方陣』4冊である。なんだ、それだけ?と思われるかもしれないが、ハンパじゃない量ですよ、ホント。今回お世話してくださったMさんが、声の限りに販売してくれたお陰である。感謝感謝。
 吉祥寺駅近くの店で2次会となり、午前零時近くまで飲んで食べて歓談した。相変わらず咸臨丸子孫の会の方たちが家族的な接し方をしてくれるので、非常に心地良かった。ご先祖様のお陰だろう。
 ホテルに戻って、あっという間にダウンした。

11月24日(土)「関孝和三百年忌法要1週間前・・・の風さん」
 昨日に続いて、今日も都内取材。東京雨男の風さんには珍しいほどの上天気だ。
 ホテルで朝食後、調布市へ向かった。駅から徒歩で電通大方向へ。そこからさらに歩いて、サレジオ神学院へ着いた。『算聖伝』に登場させた、キリシタン屋敷に長く幽閉された宣教師、ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)のお墓の写真を撮影するのが目的である。ここも初めてではないが(3回目?になるが)、写真撮影をしていなかった。キアラは、遠藤周作の傑作『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルである。宗教批判とも受け取られかねない作品だったので、遠藤周作とサレジオ神学院の神父さんとの間でトラブルがあったと聞いたことがある。実際、私が訪問したときは神父が不在で、後で電話をかけたが日本語の流暢な神父さんにもかかわらず、私への言葉は冷たかった。だから、キアラのお墓は大切にしていないのではないか、と想像していた。それ以上に、お墓そのものがなくなっていないか、危惧していたほどである。
 しかし、お墓はあった。しかも、以前はなかった解説のプレートまで横に設置してあった。遠藤周作の『沈黙』の主人公ロドリゴのモデルだ、と。ホッとした。
 昨日からかなり歩いていて足が痛かったので、調布駅へ戻るのにはバスを利用しようと思った。ところが、時刻表に書いてある時間になってもバスが来なかった。最初に女性の待ち客がタクシーを拾って行ってしまった。残るのは私と高齢の男性である。話しかけてみた。
「来ませんねえ」
「来ませんねえ」
「こんなことよくあるんですか?」
「ありますよ」
 結局、その方の提案で、来たタクシーに二人で乗った。
 調布から飯田橋へ移動した。神楽坂のあたりは会社の出張でも来たことがある。
 東京理科大学へ着くと、学園祭の真っ最中だった。ここで、来週、関孝和没後三百年記念事業の会合がある。
 近代科学資料館に入って、和算関係の展示を見学した。やがて、関孝和関連の展示が充実するはずだ。今でも、『括要算法』など重要な著述の分かりやすい展示がしてあり、参考になる。
 あまりにも良い天気なので、ぶらぶらと歩き出した。
 次の目的地は新宿区弁天町95の浄輪寺である。関孝和のお墓があるところで、来週三百年忌法要が挙行される。浄輪寺訪問も3回目になるが、交通の便が特に良いわけではない。特に電車や地下鉄は最悪。諦めて徒歩で向かっている面もあった。途中で、電線にとまった鳩を見上げて鳴いている猫の写真を撮ったりしながら、とぼとぼと歩いて行った。
 かなり歩いた。
 浄輪寺の関孝和の墓地は、来週の法要を予想させないほど普段通りだった。供花は枯れかけていて、周囲も雑然とした感じ。手を合わせ、空を見上げると、雲ひとつない青空は変わらない。
 ここからまた歩いて電車を乗り継いで東京駅に戻る計画だったが、本当に足が痛かったので、バスで新宿へ出、昼食を摂ってから中央線で東京駅へ向かった。
 新幹線と名鉄を乗り継いで、帰宅したのは午後7時だった。新幹線ではほとんど寝ていた。名古屋が近づいて目が覚め、空を眺めると満月が出ていた。

11月25日(日)「一睡もせずに講演へ・・・の風さん」
 昨夜、夕食を摂ってから書斎に籠もった。今日の講演の準備があまりできていなかった。これまで使った講演資料をつなぎ合わせてもできそうな内容だったが、それで満足できる風さんではない。
 今日の講演の難しさは、聴講者が多岐にわたること、つまりお客さんの期待がバラエティに富むことだった。落語で言えば、「三題噺」である。3つのキーワードを使って、筋の通った話に仕立てること。もちろんオチが必要。3つのキーワードは、@円周率A忠臣蔵B和算の貢献である。加えて、地元での講演であり、C私が地元でよく知られた企業の社員であることが大前提D図書館で主催する講演のため歴史小説に興味のある人がたくさん来そうE数学の先生もたくさん来そう。以上のこともお話を組み立てる上で考慮に入れなければならなかった。
 結局、一睡もできないまま夜が明けて、午前9時過ぎにようやく背骨が通った感触があった。
 数学としては全体を円周率で貫き、和算で円周率をどう扱ったか、円周率は三角関数との関連が強く、三角関数表は天文・暦学にとって必要だった。忠臣蔵は時間軸の原点に設定して、忠臣蔵から100年の間に、いかに和算が発達したかを説明しつつ、明治維新よりもだいぶ前に、日本人は西洋天文学をかなり理解できるところまで到達した、と話した。そのレベルの高さの一方で、和算は江戸時代庶民の楽しみだったと結んだ。
 昨夜、新幹線から眺めた満月も効果的に使えた。昨日は旧暦の10月15日だった。
 聴講者は100人をはるかに超えていた。会社の同僚や先輩方もたくさん来てくれた。うれしかった。へろへろ状態だったが、講演が終わったときは充実感で、また元気が出ていた。
 帰宅し、解放感に浸りながらワインを飲んで、9時前にベッドに倒れこんだ。完全徹夜とワインの酔いで、一瞬のうちに深い眠りに落ちた。

11月26日(月)「防災の心がけ・・・の風さん」
 午前7時に起床した。10時間も寝たのにまだ眠い。寝貯めはできないと言われるが、寝不足を後から補う睡眠時間がどれだけ必要かは、その人の体力次第だろう。
 とにかく久しぶりの出社なので、力一杯仕事をした。
 夕方、会社で防災講演会があった。東海地震の危険が叫ばれてだいぶ月日がたつが、地元では油断しないように訓練や心の準備に余念がない。今日の講演は、地震などがあったときにボランティアとして活動する特定非営利法人の代表理事の方である。大事なことは、第一に自分とその家族の命(危険な土地に住むことを避けるのがベスト)、第二に地域住民が助け合うこと、第三に丈夫な家に住むこと(家具などは地震対策を施すこと)。そのような内容だった。地震で亡くなった人はほとんどが地震発生から5分以内とのことで、それが主張していることの根拠である。非常に勉強になったが、我が家の備えができていないことを痛感した。

11月27日(火)「草の根運動・・・の風さん」
 25日の講演にも来てくれた方に、昨日『美しき魔方陣』を買ってもらった。そうしたら、なんともう昨夜のうちに読破してしまったという。勤務先は同じでも職場の違う女性で、なかなかの読書好きのようである。女性向きとは思えない私の本を読んでくれたのは、実にうれしい。今日、彼女は、以前買って読んだ『円周率を計算した男』を持参してきたので、サインをさせてもらった。
 草の根運動のように、こうやって読者を増やしていくしかないのかもしれない。
 昨今の疲労がとれず、書斎でダウン。

11月28日(水)「なかなか本調子に戻れない風さんの巻」
 朝から本社へ出張し、日曜日の講演に来てくれた仲間に感謝の挨拶をした。もちろん、それが目的で本社へ出かけたわけではない(笑)。
 会議後、製作所に戻り、4週間に1度の血圧検査を受けた。全く正常! 
 夕方から、会社の仕事だが実験をした。準備を超特急でやった割りに成果が十分出た。
 満足して帰宅した。
 今日は月に1度の長女が名古屋から帰省してくる日だった。元気そうで安心した。
 夕食後、書斎に籠もって雑用を……と思ったが、依然として疲労がたまっていて、効率が上がらなかった。次の執筆が目白押しで焦る……。

11月29日(木)「相変わらず綱渡りが続いている風さんの巻」
 帰宅して夕食を摂ったら猛烈に眠くなり……、という最近のお疲れパターンになってしまい、
また午前零時の日付変更線を回った頃に起き出して、作家業を始めた。30日が締め切りだった「大衆文芸」新年号用のエッセイである。だいぶ以前に少し書き始めてあったので、続きを一気に書いてしまえ、と意気込んだが、そうは問屋が卸さなかった。
 今回のエッセイは備中松山城取材記である。主に勉強会に参加しているメンバーに、鳴海風の取材の様子を紹介するのが目的だ。しかし、私も修行中の身。ちゃんとした原稿になっていなければ「ボツ」もあり得る。……30日の日記へ。

11月30日(金)「これじゃ日記じゃないな・・・の風さん」
 出社時刻が迫る午前7時、何とか形が整った。
 すぐに伊東昌輝先生へファックスを送り、同じ原稿データを編集担当の鎌田さんへ電子メール添付して送った。
 急いで出社の準備をし、朝食を胃袋へ放り込んで出発した。
 今日締め切りの原稿はもう一つあったが、それは1週間先に延ばしてもらっている。そうしなければ、今日は有休でも取らない限りとても間に合わせられなかった。
 会社では午前も午後も二つずつ会議があり、時間的には全く余裕がない一日だった。おまけに睡眠不足で、頭もボーっとしていた。
 定時後、歯医者へ行った。外れた詰め物を再処置する3回目だ。待合室で順番を待っている間に、ついついうとうとしてしまった……。
「@@さん!」
 大きな呼びかけにビックリして目が覚めた。
 型をとって作り直した詰め物はなかなか出来がよかった。治療は今回で終了になった。定期検査の案内葉書が届いて、あまりの過密スケジュールだったので、1ヶ月以上先の12月21日を予約した日の夜に詰め物が取れた。それから3回の通院で今回の治療が終わったわけだが、ふとカレンダーをチェックしてみれば、まだ11月だった(笑)。
 
07年12月はここ

気まぐれ日記のトップへ戻る